家づくりへの思いから
当社が民家再生事業を行うようになったのは、次のような理由からです。
- 大手ハウスメーカーとの激烈な競争の中で、彼らと同じような家をつくることに対する疑問がありました(失礼な表現ですが、そうした家には物足りなさを感じていたのです)。
- 当時(1980〜90年代)、住宅は築22年や23年で壊されていました(その中にはまだまだ使える立派な民家も含まれていました)。
- 高額な建設費を払って家を建てる人々に、当社の住宅をまだ自信を持ってアピールすることができていませんでした(きちっとしたものに立脚して家づくりをしている実感がなかったのです)。
このようなことを、仕事のなかで日々感じながら、当社が進むべき方向を模索していたのは事実です。
目から鱗
このような状況の中、1997年5月に偶然、日本経済新聞紙上で日本民家再生リサイクル協会が設立される旨の短い囲み記事を見て感じるものがあり、その発足間もない協会に入会しました(企業としては北海道で最初の会員でした)。そして翌1998年に、現在当社の民家再生モデル住宅となっている民家を建て替えするチャンスが訪れました。
建て替え新築の打ち合わせに何回か訪ねるうちに、これから建てる新築の住宅よりも、今ある古い住宅(大正初期の建築)の方が立派に見えてきたのです。
新築後、他社に決まっていた解体工事を無理を言って当社でやらせていただきました。手ばらし解体(機械併用)をして会社に持ち帰ることにしました。ただ、そのときはただもったいないという気持ちだけが強く、それを何に利用するかを決めていたわけではありませんでした。
そんなわけで解体当初、タカをくくって差し向けた若手大工は、当然のごとくその民家の伝統構法に手も足も出せずに意気消沈して帰ってきました。その後、当社の一番棟梁である佐藤洋悦棟梁(昭和10年生まれ)に頼んで解体の指揮を取ってもらうことにしました。佐藤棟梁は岩手県藤沢町出身、若い時は徒弟制度の中で修行をし、生家も茅葺民家とのことでした。
一歩踏み出す
結局、彼の存在があったが故に、今に至る当社の民家再生事業の発展があったと言えます。伝統木構法による民家が現在あるために、大工という職種がいかに大きな役割を担ってきたかを知る体験でもありました。この体験を通し、さまざまな人と仕事(民家)との出会いの中で、「論より証拠」つまり貴重な経験を積み重ねることの大切さ、民家再生の意義を感じながら現在に至っている次第です。
再生工事実績
- 1998年(H10)
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最初の民家解体(由仁町野島家民家)(11月)
- 1999年(H11)
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最初の民家再生→当社モデル住宅(2000年4月完成)
- 2000年(H12)
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民家再生モデル住宅完成(4月)、古材ギャラリー完成(11月)、光の森学園陶芸棟(部分完成)
- 2001年(H13)
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道立旧滝川農業試験場機械庫解体(7月)、旧幌内線萱野駅再生(7/7)、古材再生住宅坪田邸(栗沢町)、古材再生別荘D荘(ニセコ町)、西川家民家再生(森町)
- 2002年(H14)
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滝川農試機械庫を砂川市へ移築再生(アップルガーデン)、中村家民家再生(雨竜町)、小樽木造倉庫(H社)解体(12月)
- 2004年(H16)
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旧中村平八郎邸(登録文化財)復元工事(穂別町)
赤間邸(岩見沢市)古材部分再生、窪田家民家を中澤邸へ再生
三笠神社(大正14年築)解体復元工事(三笠市萱野)
- 2005年(H17)
- 2006年(H18)
- 2007年(H19)
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G牧場事務所棟古材トラス梁再生(新ひだか町:旧静内町)
- 2008年(H20)
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中村家座敷(札幌裏参道)を那須高原自然村へ移築再生
- 2009年(H21)
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斉藤家民家(厚真町、築100年)現地移築再生。見学会、シンポジューム
- 2011年(H23)
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旧夕張鉄道鹿ノ谷機関庫解体工事
旧夕張鉄道鹿ノ谷機関庫解体工事【工事概要】はこちら
旧夕張鉄道鹿ノ谷機関庫解体工事【工事レポート その1】はこちら飯川邸(三川の実家民家を栗沢町へ移築再生)
- 2013年(H25)
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栗沢町砺波の黒澤家民家(H24解体)を厚真町へ移築再生(軽食カフェ 寒露)
- 2014年(H26)
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宝水町の民家(H23)を平取町へ移築再生(I邸)
担当大工のブログレポートはこちら平取町「民家再生」完成見学会 | 特定非営利活動法人 北の民家の会【アーカイブ】はこちら
※こちらの完成見学会は終了しています。
- 2015年(H27)
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厚真町畑島家民家を同町発注の公共工事として移築再生(パン工房 此方【コチ】)
厚真町民家再生工事レポートはこちら北海道新聞のコラム記事はこちら
以上のほかにも古材を新築住宅に部分的に利用した事例、民家解体の実績が多数あります。